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さて、ここまで説明してやっと、「自動運転装置の喧嘩を意識化する」具体的な方法についてお話しすることができます。 というのも、自動運転装置の喧嘩を意識化する作業とは、先程まで説明した「からだの感覚を言語化する作業」に他ならないからです。 前述の架空の患者さんの話に戻ります。 実は、彼が「尊敬する上司」に対して実は「怒り、憎しみ、軽蔑」の感情を持っていることに気付いたのは、「思考」によって「気分の落ち込み」とラベルされた「身体感覚」を、ただそのまま「味わっている」過程の中で起きたことだったのです。 しかし、「怒り」という言葉も「思考」によって「ラベル」されたものにほかなりません。ここで作業を終わらせてしまったなら、調理途中で客に料理を出してしまうようなものです。 患者さんはしばらくの間、怒りに任せて両親に当たったり、上司にたてついたりしていたのですが、その後「この怒りとも向き合ってみたい」という話になり、今までは「怒り」と「ラベル」されていた感情=身体感覚を、ただ味わってみることにしたのです。するとしばらくして、「俺にだってできる!」という言葉がその感覚に最もふさわしい言葉であることに気付き、彼は涙を流しながら、繰り返し頷いたのです。 「自分は何もできない人間だ」という気持ちを引き起こしていた「うつ」が、実は「俺にだってできる!」というエネルギーを採用しないことによって生じていた。という、とても皮肉な話なのですが、実はよくあることです。 しかし、繰り返しになりますが、今までの文章に目を通し、いくら「思考」を使い「ああ、私もそうなのかなぁ・・」と思ったとしても、そのエネルギーは決して「変化」を起こしてはくれません。「身体感覚」に不慣れな現代人は、「思考を働かせることなく、ただその感覚を味わうこと」を非常に苦痛に感じます。うつの方も多くの方は、横になりながらも、そのからだの重たさそのものを「ああ、嫌だなぁ・・・」「早く何とかならないのかなぁ・・」「何で、俺ばっかりにこんなことが起きるんだろう」といった「思考」を巡らせることで、必死に「味わおうとしていない」はずです。そして、あまりにも苦しくなると、最終的には薬を使って眠るか、過食やアルコール、リストカットという「更に強い刺激」によって受け入れたくないからだの感覚に「麻酔」をかけようとしてしまうのです。 「うつ」という身体感覚に「開かれる」ということは、多分「こいつとだけは、死んでも友達になりたくない」という人と友達になるくらいの苦しい作業なのでしょう。もちろん、すべての人が「開かれる」必要はないと思いますし、時には薬によって「逃げる」ことも大事だと思います。 しかし、せっかく目の前に差し出されている「材料」にただ目を背け続けるのではなく、少々の好奇心と、「どんな自分が出てこようが、そんな自分をまずは受け入れよう!」という決意を持って、これらの材料を「思考を用いることなく、ただ意識を向ける」という形で「料理」してくれる方が少しでも増えていただけると嬉しいです。 注1:この患者さんは「気分の落ち込み」から「怒り」という過程を経て最終的に「俺にだってできる」というエネルギーがあるのだ、という実感を得ることができたわけですが、途中の「怒り」という段階を通ることなしに、「俺にだってできる」という実感を持つことはできません。これは、ひとつの過程でも手を抜くと、料理が完成しないことを例えにすると理解が深まると思います。 注2:「神経症性うつ病」の人のすべてが「俺にだってできる!」というエネルギーを秘めていることを伝えているわけではありません。材料を調理することで、どのような料理が出来上がるかは、個々によって変わってきます。単極性うつ病の方、双極性障害のうつの方が、もし「うつの身体感覚を味わう」ことができた場合には、最終的に「つべこべ言わずに休みなさい!」という「料理」が出てくる方が多いような気がしますが、神経症性うつ病の方の場合、どんなことで喧嘩が起きているのかは解らないので(もちろん、専門家であれば何となく予想することはできますが、必ずしも当たるわけではありません。)、いざ向き合ってみて現れた「料理」に、患者さんだけでなく、治療者が驚くことも多々あります。 注3:誰かの一言で「ああ、そうだったのか!」と納得すること(専門的には「洞察体験」と言います)がありますが、これは、自分の中で調理は進んではいるものの、まだ言葉としては現れていない何らかの身体感覚に対して、相手が、偶然にその出来上がった料理にふさわしい名前を呼んでくれた場合に起きる。と考えてもらうと良いと思います。まだ材料の段階で完成形を伝えたとしても、決して洞察体験は得られません。治療家の仕事とは、患者さんが料理を勧めていく作業をあたたかく見守ること。そして、最後にどうしても言葉として出てこない人には、(半分は当てずっぽうで)「こんな感じ?」と伝え、料理が完成するお手伝いをすること、と表現できるでしょう。(実は、結構おいしいところだけ頂く仕事のような気がしてきました・・・) 「料理」の例えが、自分とってはえらく「はまって」しまったもので、多用してしまいました。皆さんにわかっていただけるとよいのですが・・・
by k-naruwo
| 2004-10-13 12:25
| 各論3-2 神経症性うつ病
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