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全体 はじめに プロフィール 心の病をこう見てみよう―総論― 各論1、単極性うつ病 各論2、双極性障害(躁うつ病) 各論3、神経症性障害 各論3-1 心身症 各論3-2 神経症性うつ病 各論3-3 強迫性障害・依存症 各論4 統合失調症 エッセイ 日記 トラックバック おしらせ 以前の記事
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睡眠薬は「眠れる薬」ではなく 「たいていの人が眠るという状態になるまで頭の働きを抑える薬」であり 睡眠薬を飲んでも眠れなかったのは 「薬が効かなくなった」のではなく その日に限って「薬の働き以上に、頭が忙しかっただけ」 である場合が殆どである。 睡眠薬を「眠れる薬」であり、睡眠薬を飲んでも眠れなかったことを「薬が効かなくなった」と捉える人に、どのようなことが生じやすいだろうか。 まず「睡眠薬を飲む」という行為が 「それでも眠れなかったらどうしよう・・・いや、眠れるはずだ。信じよう!」 という「頭を忙しくする行為」につながる。 当然、薬を飲んでも眠れない確率は高まる。 しかし、このような当たり前の出来事は「薬が効かなくなった」と評価されてしまう。 睡眠薬は増やされることになる。 そして睡眠薬が増えた日の晩は 「薬が増えたのだから眠れるよな・・・・・・あれ・・・・おかしいな・・・・・・・・眠気が襲ってこないよ・・・なんてこった!!」 と、増えた睡眠薬は、余計に頭を忙しくさせる「材料」になってしまう。 さて、こうなってくると 「この薬には耐性ができてしまったようですから、別の薬に変えましょう。」 という方向に話が進んでいくことが多い。 そして、その日の晩は 「ああ・・睡眠薬飲まなくては眠れないよな・・・でももう前の薬は耐性ができてしまったし・・・今度変わった薬なら大丈夫かな・・・・心配だな・・・」 こうやって、普通であれば、自然に頭が落ち着いていくはずの時間が、「眠る」という行為について頭を働かせる時間として習慣化されていく。 まるで「睡眠薬を飲んでも眠れない」のではなく 「睡眠薬を飲んだから眠れない」ようになってしまうのである。 もちろん、薬物耐性がないわけではない。 しかし、それは「頭の働きを抑える強さ」が少しずつ弱まる形で現れるのであり、 ある日を境に突然「全然眠れなくなる」という形で現れはしない。 眠れなかった日には、必ず普段以上に「頭が忙しくなった事情」が絡んでいるはずなのである。 「ああ、今日は薬飲んでも眠れないな・・・・まあ今日は頭の中にまだ処理しきれない『宿題』が残っているんだろう・・・宿題が終わるまでの間は頭が忙しくても仕方ないな・・・・」 偶然落とし穴に落ちてしまったかのように眠れなくなってしまった時は、このような形でただやり過ごすことが、結果として早く頭を落ち着かせることにつながるものである。(その上で「それでも早く休みたい」のであれば、頓用の薬を飲めばよい。) 「眠り方を忘れてしまった人」が、なかなかそこから抜け出すことができなくなってしまうのは、睡眠というメカニズムに「努力すればするほど、その努力が報われない方向に働く」という「悲劇」があらかじめ内包されているからなのかもしれない。 もっともその「悲劇」は精神科の疾患全般に当てはまる気がしないでもないが・・・ 少し不安になったので追記:「睡眠薬はいらない」ということを伝えたいわけではないことは、わかっていただけていますよね・・・? #
by k-naruwo
| 2005-04-29 01:06
| エッセイ
法則1:ストレスは、強いものから弱いものに向かって流れる 法則2:ストレスは、正しいものから間違ったものに向かって流れる 法則3:弱い者・間違ったものは、自他に破壊的な方法で強いもの・正しいものにストレス を返してしまう こころ優しい青年が、親から「正論」と称した八つ当たりを受け続けていた 青年は、受け取ったストレスを親に返してしまえば、親が壊れてしまうことを知っていた 青年は、ひとりでストレスを引き受け続けた結果、家に引きこもるようになった 両親は「間違ったことをしている」青年に対して、更に正論を唱えるようになった 「この子は、本当にストレスに弱くて・・・」 「この子さえ良くなってくれれば・・・」 「本当にもう、私のほうが病気になってしまいそうで・・・」 親の嘆きを当然のことだと思う青年は、その言葉に逆らう術もなく、気持ちは更に落ち込んでいった ある時青年は、自分自身に対するふがいなさ、自分の心の内をわかってもらえないやるせなさから、自分自身を傷つけてしまうようになった その姿を見た親は「とうとう息子は、おかしくなってしまった」と 青年を病院に連れてきた 「どうか、この子を良くしてください」 「どうしてこんな病気になんかなってしまったんでしょう・・・」 饒舌な親とは裏腹に 青年の口は閉ざされたままだった 「あなたが健康で居続けるために、息子さんは身代わりになっているのかもしれませんよ。まあ、決して上手なやり方ではありませんが・・・」 いつか、一番いいタイミングで、そのひとことを家族の前で伝えよう それまでの間は、申し訳ないが 家の中では 「悪者」になってもらったままで、いいかい? ちゃんと、知っているからね #
by k-naruwo
| 2005-04-14 22:25
| エッセイ
よく「だらしない人」と「几帳面な人」、「寂しがり屋」と「独り好き」といった、両極端の傾向を持つカップルを目にする。 大抵は、互いの相手を「もともとは、そんなに極端ではなかったんだけど・・・」と評する。 そして、几帳面な人は、だらしない人を何とか自分と同じく、「少しは几帳面な人」にしようと努力をする。「独りを好む人」は、少しでも「寂しがり屋」な相手を「独りでも居られるように」と距離を置こうとする。 このような努力が、結果として更に相手を「だらしなく」させたり「寂しがり屋」にさせてしまう。 相手を自分の世界に少しでも「戻そう」とする努力そのものが、結果としてお互いの溝を深めてしまうのである。 このような時は、「個」を問題にするのではなく「場」を問題にすることが、互いの溝を埋めるために役立つことがある。 下の図を参考にしていただきたい。 誰しも、自分の中に「独りでいたい自分」と「誰かと一緒にいたい自分」といった形で、矛盾する両面の自分を抱えている。しかし、大抵は「私は○〇だ」と一面的な側面のみを「自分自身」と捉えることが多い。それぞれ自分とは違った側面を持つもの同士が一緒になると、よほど意識していない限り、否が応でも「自分にはない」と思っている部分を相手に「投影」しあい、知らぬ間にある特定の「役割」を演じて(演じさせて)しまう。 このようなことが起きている場合、どちらかが「場」で起きていることに気づくことができれば、状況が一変する。「ああ、私の中で必死に『だらしなくあってはならない』と思って行っていたことが、結果として彼をだらしなくさせてしまっていたのだ。」というように。その上で「だらしない自分」をその人が引き受けることによって、結果として「几帳面な側面」が相手にも育っていくのである。 患者さんとの治療が停滞している時には、「自らを変えようとせず、患者さんを変えようとしている自分」に気付くことがある。本当は治療者にあるはずの「影」を自らが引き受けようとしないことで、治療という場の中で「健康な医者」と「病気の患者」の関係がただただ延々と続く光景が、巷には溢れている。 #
by k-naruwo
| 2005-04-03 15:15
| エッセイ
forgive_yurusiさん fussyvetさんの記事から、そのまま転載させていただきます。 病者の祈り 大事をなそうとして力を欲しいと神に求めたのに 慎み深くあるように弱さを授かった より偉大なことができるようにと健康を求めたのに より良きことができるように病弱を授かった 幸せになろうとして富を求めたのに 賢明であるようにと貧困を授かった 世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに 神の前にひざまずくようにと弱さを授かった 人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに あらゆることを喜べるようにと生命を授かった 求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞かれた 神の意にそわぬ者であるにもかかわらず 心の中で言い表せない祈りはすべてかなえられた わたしはあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ (ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた -患者の詩) 病を克服することがテーマである人がいれば 病を受け入れることがテーマの人もいる 目の前の患者さんが、どのようなテーマを背景にその病を持つに至ったのか そしてその上で、目の前の患者さんに何を行うことが自分自身のテーマなのか ひとりの医師が、それを見分けようと試みること自体が傲慢なのかもしれないが 病に対する最大公約数を表した「地図」のみが真実だと信じ 「地図が間違っている」という可能性を放棄するような医師には なりたくないと思った 常に矛盾を抱えていよう 自分がやわらかくあるために 特に病棟から呼ばれたわけでもないのに早く目が覚めてしまったので、新たな出発を前に決意を表明してみました。 #
by k-naruwo
| 2005-04-01 06:04
| エッセイ
前の記事を書きながら思い出したことがある。 小さい頃、床に寝そべりながら 「自分は呼吸に気持ちが向いていないとき、呼吸をしていないのではないか?」 と気になったことがあった。 自分の呼吸に意識を向けた途端、その呼吸が不自然になっている自分を感じるのだ。 今、生きているということは、自分が呼吸に意識を向けていなかったときにも自分は常に「息をしていた」はずなのに 何かを行っていながら、それと同時に呼吸をしていた自分が信じられなかった。 意識を向けると「それ」はするりと姿形を変え、別のものになってしまうことに、もどかしさを覚えた。 「いつか、自然に息をしている時の自分を捕まえてやる。」 そんなことを思っていた。 それをやっと「捕まえる」ことができた。 正確には、捕まえるというよりは バードウォッチングで、野鳥を遠くから眺めるような感覚ではあったが 確かに「それ」はいた。 呼気から吸気、吸気から呼気へと移り変わる瞬間の、折りたたむような感覚の中に 「私」とは別の 「いのちの働き」を 微かではあるが感じることができた。 「生きているのではなく、生かされている」 そんな、よくある表現が 頭の中だけではなく 少しだけ、実感を伴ったものになったような気がする。 #
by k-naruwo
| 2005-03-18 06:37
| 日記
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