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陸の出来事に影響を受け、常に水面を揺らし移ろいやすく様相を変える湖。 しかし、湖自体が移ろいやすい存在であるわけではない。 湖底には、陸のどのような出来事にも動じない、絶対的な安定を保ち続ける闇の世界が広がっている。 その世界を一度でも経験した者にとっては 目まぐるしく揺れ動く「水面の世界」に翻弄される者達が滑稽に見える。 しかし、その安定感にしばらく浸っていた彼は、ある時気付く。 「そうか。いつでも『ここ』へは戻れるのだ。」と。 そして彼は再び「慌しい世界」へと戻っていった。 「何事にも動じない、確かなものがある」という自信とともに。 ただただ、呼吸を感じていたときに気付いたことです。 #
by k-naruwo
| 2005-03-17 23:30
| エッセイ
今日外来で、自分の病気(IgA腎症)のことについて知るはずのない患者さんから突然「先生、腎臓大丈夫ですか?」と聞かれ、びっくりしました。 ご自身の病気について検索していたらここに辿り着き、プロフィールを読んですぐわかったとのことでした。いやぁ、鋭いですね・・・ その患者さんから「ところで、どうして招き猫なんですか?」という素朴な質問があったので、まずは私と招き猫について少しお話をしたいと思います。 大学5年時に、はじめて海外旅行(インドネシア)に行ったのですが、機内の雑誌に載っていた広告(確か金融関係だったような・・・)の招き猫の写真に、私の目は釘付けになりました。 「か・・・かわいい・・・」 当然ながらその雑誌は持ち帰り その写真を切り取り、額に飾るだけでは物足りず 「もっと、大きい姿を拝みたい」 と自ら筆を取り、写真と同じ絵を描くくらいの惚れ込みようでした。 更に当然の如く「写真と同じ招き猫を手に入れたい」と「愛情」は膨らんでいきました。ところが、どこへ行っても写真と同じ招き猫がないのです。方々の土産屋に置いてある招き猫を巡り、「違う」とはわかりながらも、ちょこちょこと招き猫の置物を買うようになりました。「こうも見つからないとなると、その広告の為だけに作られたものなのか?」「実物は一生拝めないのでは?」と、半分諦めていました。 そして7年の月日は流れ、昨年の7月、ネットでふと目にした画面に映っていたのが、なんと写真の招き猫!食い入るように写真の説明に目をやると、そこには「豪徳寺・招福猫児(まね“ぎ”ねこ)」と。「招き猫の発祥」とまでいわれるほどポピュラーな猫だったのです。そのくらい有名な招き猫を見つけ出すのに、随分と時間がかかってしまいました。 その週の週末には、私は引き寄せられるかのように、世田谷区豪徳寺へと向かっていました。そして7年の月日を経てやっと手に入れた愛しの招き猫が、トップの招き猫でございます。 そして現在、家の玄関は こんな感じになっており、訪れた方を呆れさせております。 ということで、質問の答えは「ただ好きだから」です。 ご要望にお答えしましたよ~。 #
by k-naruwo
| 2005-03-16 21:53
| エッセイ
日曜日が当直だったので、ホワイトデーのお返しをてっきり忘れておりました。 1日遅れではありますが、こんな記事を書いたこともあり、久しぶりにシュークリームを作ってみました。 カスタードクリームとコーヒークリームを、これから詰めるところです。 そんなわけで、コメントの返事はもうしばらくお待ちください。 写真はこちら #
by k-naruwo
| 2005-03-15 00:46
| 日記
「元に戻ってしまった」 治療の過程の中で、そのような嘆きが患者さん本人や、家族から聞かれることがある。 偶発的に様々な出来事が重なり、気分の落ち込みや、依存行動、強迫症状の程度が一時的に強まることは良くある事である。 しかし、その人が病気の症状を「良くないもの」で排除しようとする傾向にある人と、「何らかの意味があるもの」と考え、病気になったことをきっかけに以前の生活のあり方を少しでも見直そうと心掛けている人とでは、症状の再燃という出来事にも違った「匂い」を感じる。 表現するなら、前者は「抑えては爆発する」という、良い状態と悪い状態との反復運動を繰り返しているだけのように見えるが、後者は、同じことを繰り返しているように見えながらも、どことなく「前に進んだ」という印象を受けるのである。 このことを「治療はラセン階段のように進む」と表現することがある。「一周しただけのように見えながらも、実は一段上に上がったのだ。」と考えるのである。症状が再燃するごとに新たな「気付き」が生み出される。そのことがきっかけで更に自分との折り合いがつくようになり、生活をより良く送れるようになる。ラセンは上に行くほど径が小さくなり、最終的には「治まるところにおさまる」わけだ。 しかし、繰り返すことを何としてでも避けたいという人は、どうしても「良い状態を抜け出したくない」と、ある状態に留まり続けようとする。そこには「不自然な力」が働いている。やじろべえで例えるなら、良い状態の方に傾いているやじろべえを、何とかそのまま傾いた状態で居続けさせようとする力である。力尽きれば、再び「悪い状態」の方へ一気に傾く。そこで生じるのは「また失敗してしまった」「今度こそ失敗しないぞ」という自己嫌悪感と、悲壮な決意である。揺れ動く状態をただそのまま受け入れさえすれば、新たな「気付き」と共に、やじろべえも落ち着くところに落ち着くというのに・・・ もっとも、症状を取り除こうとしてもどうしても取り除けず、反復運動をすることそのものに疲れ、取り除こうとする作業そのものを「手放した」ことがきっかけで「気付き」に繋がる方も多い。その人が「手放す」ためには、これだけの繰り返しが必要だったのだろうな、と考えると、一見すると反復運動に見えた症状の繰り返しも、大きな目で見れば「ラセンを昇っていた」のかもしれないとも思う。 ・・・しかし、この説明はタイミングを逸すると、患者さんの気持ちを逆なでしてしまうこともあるようです。以前、摂食障害の患者さんにこの例えを用いて説明したところ「何で私が階段なんて昇らなきゃいけないのヨ!」とひどく怒られたことがありました。治療者も、ラセン階段を昇るように成長していくのだと思いたいです。 #
by k-naruwo
| 2005-03-14 00:44
| エッセイ
言葉はイメージを運ぶ荷車である。※ そして、そのイメージは実体験によって養われる。 「りんご」という言葉を耳にした時 以前食べたりんごの色・ツヤ・匂い・触り心地・歯ざわり・味が鮮明に思い浮かぶ人と りんごを食べたことはないが「りんご」を表す10カ国の単語が思い浮かぶ人 「りんご」という言葉に対して「豊か」なのは、どちらの人だろうか。 摂食障害やアルコール依存、リストカット等の患者さんの治療が進むにつれ、「空虚感」がテーマになることが、よくある。 そして、そのような方々の多くが「りんご」に対して後者のような関わりをしてきた「優れた人」たちである。 彼らの治療は、「りんご」に対する知識をこれ以上増やすことでも、「みかん」や「ぶどう」について学ぶことでもない。 「りんご」を充分に味わうことである。 日々の何気ない生活を、五感を総動員して味わい、言葉の厚みを少しでも持たせることが、空虚感の改善に繋がり、結果として過食嘔吐やリストカットといった「強烈な実体験」で空虚感を埋める必要性が薄れてくるのである。 自分を支える実体験の薄さに耐えかねて、衝動的に「りんごを味わいたくなってしまった」ことで生じている疾患や犯罪は、思いのほか多い。 ※精神科医 神田橋條治先生の言葉です。 #
by k-naruwo
| 2005-03-10 23:20
| エッセイ
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