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全体 はじめに プロフィール 心の病をこう見てみよう―総論― 各論1、単極性うつ病 各論2、双極性障害(躁うつ病) 各論3、神経症性障害 各論3-1 心身症 各論3-2 神経症性うつ病 各論3-3 強迫性障害・依存症 各論4 統合失調症 エッセイ 日記 トラックバック おしらせ 以前の記事
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開院後も、無事になんとかやっています。 今日は時間もあったので、クリニックのブログを作ってみました。 こちらからお越し下さい。 基本的には、これからは「院長のひとり言」の方に、更新していく予定ですので、今後ともよろしくお願いいたします。 #
by k-naruwo
| 2007-04-13 22:48
| おしらせ
病を治したいという気持ちは勿論大切なことだとは思うのですが、その気持ちがあまりにも強い方を目の前にすると、 「ああ、この方はそれだけ、今の自分を嫌いながら生きているのだな。」 という情報の方を強く感じてしまいます。 その「一生懸命さ」を治療にいかすためには、いくらか「一生懸命さ」を手放してもらうことも必要なのですが、これがなかなか難しいんだなぁ·· #
by k-naruwo
| 2007-03-12 20:52
| エッセイ
「自己実現と病」をまとめようと、非公開の形で色々文面を作っているのですが、時間ばかりが過ぎていくだけで全然まとまりません。取り上げたテーマが大きすぎてしまったと反省しております。 大学は3月15日付で退職し、4月3日の開院に向けて準備を進めることになります。待合や診察室、事務の備品も次々と搬入され、残るは電子カルテくらいでしょうか。3月16日に設置工事になるようです。 建物には看板が入り、周辺の道沿いに立て看板も建ちました。看板の前を車で通るたびに、不思議な感覚に襲われます。 「さすがに、ここまでやってしまうと、今更やめるわけにはいかないよなぁ・・・」 スタートラインに立ったからには、後戻りはできないことはわかっていつつ、こんな一言をこぼしたくなってしまう私がおります。 「ここにきて、えらく後ろ向きな発言ばかりするわねぇ(笑)」 と、妻は半分はあきれているようですが、喜びや期待だけでは表現しきれない、複雑な気持ちをそのまま受け入れてもらい、とても助かっております。 うーん・・・やるしかないか。 ※クリニックの外観、内装は日を改めてアップします。 #
by k-naruwo
| 2007-03-08 00:30
| おしらせ
相変わらず患者さんに対しては自動車のモデルを用いた疾患の説明を行っています。しかし、最近になって説明の方向性が少しずつ変わってきています。うまく言葉にできなかったためブログには載せられなかったのですが、いくらか表現できそうな気がしてきたので、総論の補足として今回説明を追加したいと思います。 簡単に言うと、こんな説明を行うことが増えてきています。 レーシングカーのような車体(脳)を持っている人が山道を走れば故障しやすい。 RVカーのような車体(脳)を持っている人がサーキット場を走れば故障しやすい。 これは、神田橋條治先生が常々言っていらっしゃる「鵜は鵜のように、烏(カラス)は烏のように」ということと何ら変わりないのですが、私個人は車の例えの方がイメージが湧きやすいので、こちらの例えになっています。 レーシングカーを走らせるには、サーキット場という環境が最もその車体の資質を発揮するわけですが、生まれつきそのような資質を持つ人が「車というのは、山道を走らせてなんぼだ。」あるいは「車というのは、道路渋滞のノロノロ運転も平気でできなければならない。」といった価値観を持つ親に育てられたとすれば、元々その人自身を運転させるマニュアルそのものが、資質にあっていないことになります。となると、その人は親から植えつけられたマニュアルで自分自身を運転させることを忠実に守ろうとすれば守ろうとするほど調子が悪くなる、という困った事態が生じてきます。 このような状況に対して、「走らせる道が違っているのかも」と柔軟に考えられることはめったにありません。大抵は「お前(私)の努力が足りないのだ。」「もっと頑張れば、立派に山道でも走れるようになるはずだ。」というように、既存のマニュアルを徹底させるような方向に進むでしょう。そのような誤った方向の努力の結果、これ以上資質に合わない運転を続けていることに対して車体(脳)が「これ以上同じ運転を続けることはもう限界です!」と悲鳴を上げている状態を「病」と呼ぶことにするのです。 さて、そのように「病」を捉えた場合、例えばF1カーのような車体(脳)の資質を持っている人が、「山道を走ろうとすると調子が悪くなるので、山道でも普通に走れるようになりたい」という訴えで病院を訪れたとします。ここで、患者さんの訴えに忠実に従うとすれば、治療者は患者さんの脳の資質を薬によって「殺す」必要が出てきます。F1カーのような脳を、「国産のスポーツカー」程度になるように脳の働きを鈍くすることによって、確かにその患者さんは山道でも何とか走れるようになるかもしれませんし、そうすることで治療者は患者さんにも家族にも喜ばれることもあるでしょう。しかし、このような患者さんから「いつまで薬を飲んでいればいいのですか?」と尋ねられたら、治療者はどう答えればいいでしょうか?もしこの患者さん、家族が「車というのは、山道を走れてなんぼだ」という価値観を抱き続けているのであれば、この患者さんは、亡くなるまでの間ずっと薬を飲み続けなければならないでしょう。 ところで、もしこの患者さんが「山道を走るスペシャリストになりたい」と願っており、そのように生きることを「自己実現」と捉えているとします。当然、この患者さんにとってその「自己実現」は達成されることはなく、むしろそうなりたいという強い希望を持つが故に薬を飲み続けなければならないわけですが、そこに、この患者さんの「F1カー」としての資質を存分に引き継いだ子供が生まれたとします。「俺が果たせなかった山道のスペシャリストとしての夢を、子供に託すことにしよう」・・・このように育てられた子がどうなっていくのか・・・想像すると、少し怖いですね。 別の例も考えられます。「F1カー」のような資質を持った人が、幸いにもその資質を生かせる「サーキット場」という環境の中で過ごし、大成功を収めたとします。「自分と同じような生き方をすれば、誰でも成功するに違いない。」とその人は考えていますが、子供はむしろ配偶者側の資質を引き継いで「RVカー」のような車体(脳)でした。その子に対して「自分の成功ノウハウ」を押し付けるような養育を行なっていったとしたら・・・ いずれにせよ、どちらの例も、自らの資質を選ぼうとすれば、(少なくとも片方の)親からは認めてもらえず、自らの資質とは合わない親の運転マニュアルを選ぼうとすれば、自らの資質がそれを許さないという板ばさみの苦しさを、子は味わうことになることでしょう。 #
by k-naruwo
| 2006-12-14 00:25
| 心の病をこう見てみよう―総論―
私は幸せでありますように 私の悩み・苦しみがなくなりますように 私の願いごとがかなえられますように 私に悟りの光が現れますように 私は幸せでありますように 私の親しい人々が幸せでありますように 私の親しい人々の悩み・苦しみがなくなりますように 私の親しい人々の願いごとがかえられますように 私の親しい人々にも悟りの光が現れますように 私の親しい人々が幸せでありますように 生きとし生けるものが幸せでありますように 生きとし生けるものの悩み・苦しみがなくなりますように 生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように 生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように 生きとし生けるものが幸せでありますように ※ 私の嫌いな人々も幸せでありますように 私の嫌いな人々の悩み・苦しみがなくなりますように 私の嫌いな人々の願いごとがかなえられますように 私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように 私を嫌っている人々も幸せでありますように 私を嫌っている人々の悩み・苦しみがなくなりますように 私を嫌っている人々の願いごとがかなえられますように 私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように 生きとし生けるものが皆幸せでありますように アルボムッレ・スマナサーラ:「心は病気-役立つ初期仏教法話2-」p191-193:サンガ新書 はじめて目にしたとき,なんと良くできた瞑想の言葉だ!と驚いた。はじめに自らが幸せになることを願いつつ,徐々にその範囲を広げ,「生きとし生けるもの」とすべての命ある存在に対して願いを唱えた後に,※以降の互いの関係が良くない者に対しても唱え,自らの「心の安定度」をモニターするようにできている。(ちなみに※以降は,あくまでも「モニター」のためであって,無理してまで唱えることを推奨している訳ではない所もまたいい!) ちなみに,この本で一番重点を置いているのは上の瞑想ではなく,その後にある「ヴィパッサナー瞑想」というものである。釈迦が悟りを開くことができた唯一の瞑想法ということらしいのだが,その瞑想を一言で表せば,「言葉を無力化させる瞑想」ということになるだろう。頭の中で唱えている言葉は,すべて「今・ここ」で自分が行っていることを「実況中継」するためだけに用いるのである。「言葉の奴隷」というエッセイでも書いたように,言葉は過去や未来を自由に行き来することができる便利な道具である一方,「今・ここ」で起きていることをありのままに体験することの妨げとなっている。言葉に振り回され,過去と未来という「幻想」に囚われてしまっている状態から開放されるためには,言葉を過去や未来に「行かせないようにすればいい」ということのようだ。(詳しくは是非本をお読みになってください) そのようなことを考えていたところふと思ったのが,対話が上手くいっていないときは大抵話題が過去や未来のことになっており,「今・ここ」について取り上げられることは殆どないなあ,ということである。 「まったく,こんな遅い時間に帰ってきて,いったいどこで何をやっていたの?心配してたのよ!」 「うるさいなぁ。どこで何をやっていようが,俺の勝手だろ。いつもいつも本当にお前は俺にケチつけることしかできないのかよ。」 「それってどういうこと?あなたが連絡しないのがわるいんでしょ?明日だって早いっていうのに・・・私はあなたのお母さんでも何でもないんですからね!いつまでもわがままが通ると思ったら大間違いですから!」 「まったく,こんな遅い・・・」という妻の一言をすべて「今・ここ」で自分に生じていることを表現するように変えてみると,こんな風になるだろうか。 「あなたが私に連絡することなしに,この時間に帰ってきたということに対して,私は怒りの気持ちが生じています。でも,無事に帰ってきて良かったという安心した気持ちもあるし,あなたが家に着くまでの間,何をしていたのか知りたいという気持ちにもなっているの。」 少し不自然ではあるが,ずいぶんと柔らかい雰囲気の表現になった。そういえば相原コージの「コージ苑」という漫画の中で,自分の気持ちを「実況中継」しあう夫婦がシリーズものであったのを思い出した。えらくこっけいなのだが,最後はいつも円満に終わるのである。過去や未来に振り回されないようになると,人は自然と優しくなれるのかもしれない。 #
by k-naruwo
| 2006-11-21 23:38
| エッセイ
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